会社概要
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- 会社名
- 吉澤建設工業株式会社
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- 代表者
- 𠮷澤 尚登
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- 所在地
- 〒369-1234 埼玉県大里郡寄居町大字折原2085番地1
Tel. 048-581-3050
Fax. 048-581-3053
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- 創業
- 1954年2月
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- 資本金
- 30,000,000円
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- 事業内容
- ・総合建設業(建築工事・土木工事・解体工事・舗装工事等の施工、監理)
・宅地建物取引業
・上記に付帯する一切の業務
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- 許可
- 埼玉県知事許可(特-4)第5728号
(建築工事業 土木工事業 解体工事業 舗装業 水道工事業 とび・土木工事業 大工工事業)
産業廃棄物収集運搬業許可 許可番号 01100179080
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- 登録
- 1級建築士事務所登録:埼玉県知事登録(11)第363号
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- 免許
- 宅地建物取引業免許:埼玉県知事登録(1)第24865号
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- 資格保有者
- 1級建築士 2名
2級建築士 1名
1級建築施工管理技士 2名
2級建築施工管理技士 1名
1級土木施工管理技士 4名
2級土木施工管理技士 2名
登録2級建設業経理士 1名
宅地建物取引士 1名
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- 取引銀行
- 埼玉りそな銀行 寄居支店
武蔵野銀行 寄居支店
群馬銀行 深谷支店
埼玉懸信用金庫 寄居支店
熊谷商工信用組合 寄居支店
アクセス
沿革
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- 1954年
- 𠮷澤健次が埼玉県大里郡寄居町で創業
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- 1967年
- 𠮷沢木材工業株式会社設立
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- 1973年
- 吉澤建設工業株式会社に社名変更
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- 1973年
- 資本金を1,000万円に増資
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- 1976年
- 資本金を2,000万円に増資
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- 1979年
- 資本金を3,000万円に増資
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- 2002年
- 𠮷澤健次 会長に就任
𠮷澤尚登 社長に就任
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- 2022年
- 不動産事業部を設立
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- 2024年
- 創業70年
創業物語
第1話創業者・𠮷澤健次
1927年、創業者・𠮷澤健次は埼玉県北部にある折原村(現・埼玉県寄居町)に、農家の9人兄弟の四男として生まれました。
健次が3歳のとき、麻疹(はしか)に罹患。当時この地域では、子どもが麻疹にかかっても医療機関を受診することは一般的ではなかったようで、健次も自宅療養のみで治癒をはかっていました。
しかし、運悪く病状が悪化。命はとりとめましたが、高熱にさらされた健次はほとんどの視力を奪われてしまいました。
光や動くもの・人のシルエットはぼんやりわかるものの、小さな文字は読めません。小学校に入学すると、後ろの席から黒板の文字は見えないため常に一番前の席に座っていたそうです。
しかし、4年生になったとき。新しく担任になった先生に「𠮷澤、なぜ背が高いお前が前の席に座っているんだ!一番後ろに行け!」と、怒鳴られました。それに腹を立てた健次は「二度と学校に行くものか」と誓い、それ以来一度も学校に行くことはありませんでした。一度決めたら絶対に引かない性格はこのころからのようです。
1940年頃の𠮷澤家。後列左から3番目が𠮷澤健次
第2話修行からの帰還
小学校を卒業する歳になった健次は、手に職をつけるため、都内にある盲目のあん摩師が営む治療院へ住み込みで働きに出ることになりました。昔で言う「丁稚奉公」といったところでしょうか。
しかし、あん摩の修行に加え治療院の日常生活の手伝いは、健次には辛い仕事でした。文字が書けない健次は、兄弟子に代筆を頼み、すぐ上の兄である弥生(やよい)に手紙を書きます。
―弥生兄さん、俺はもうこの生活はいやだ。帰ったらどんな仕事でもするから、家に帰らせてください。
それを読んだ弥生は、自転車で健次を迎えに来ました。その距離、およそ100km。当時の道路状況と自転車の性能を考えると、片道8時間程度はかかったのではないかと思われます。家に戻った健次は、それ以来どんなに厳しい農作業や家の仕事でも、文句を言わずに働きました。
第3話「山師」
当時𠮷澤家では、農業のほか山林の買付けや伐採を請け負う「山師」の仕事もしていました。長兄の福吉(ふくよし)につき山師の仕事を懸命に覚えた健次。
広大な山林の立木を買い付けるため、一本一本の木の値打ちを勘案している暇はありません。まして視力が弱い健次は、立木の良し悪しを見た目で判断することはできませんでした。
そこで健次は、手で触った感触と、叩いたときの音、葉が風に揺れる音、そしてその場の雰囲気で山林の価値を判断しました。のちに健次は、「良い木は、葉も良い。だから、良い山林で葉が風に揺れたときの音は、そうでない山林の音とぜんぜん違うんだ」と、息子(現・吉澤建設工業代表)に語っていたそうです。
第4話商売の面白さ
山師の仕事のほか、藪(やぶ)や薪を集め隣町の瓦屋(住宅の瓦を焼いて造る仕事)へ売り歩くことも健次の仕事でした。
長兄の福吉に言われた通りの値段で、言われた通りのルートを通り何件もの瓦屋を回っていた、ある日。最後の1軒をたずねるころには、わずかな薪しか残っていませんでした。
それを見た瓦屋の奥さん、「あらやだ、今日はこれしかないの?困ったわ。今度はうちにいちばん最初に来てちょうだいね」と、健次のポケットにそっとお金を忍ばせました。
当時、健次は14~15歳。「需要と供給」という市場経済の原理を、身をもって感じた瞬間でした。
戦前戦中の教育をしっかりと受けた同世代の男子が徴兵を意識し、また徴兵されるなか、身体的な理由で徴兵を免れた健次は、はからずも商売の面白さを身体で覚えていったのです。
1954年はじめ、健次は結婚。それと同時に長兄・福吉のもとを離れ独立することを決めました。この年が、吉澤建設工業の創業年です。その年の暮れには長男・尚登(現・吉澤建設工業代表)が生まれました。
長男・尚登を抱く健次の妻すみ子(1955年頃)
第5話「貞誠」の精神
独立した健次は、山師の仕事から材木屋へ転換。そして、建設業者と取り引きする中で得たノウハウをもとに、1973年には建設業へと転換しました。
時代は高度経済成長期。多くの土木工事や、木造住宅の建築を手掛けるようになりました。
会社の成長とは裏腹に、健次は徐々に視力を失っていきました。そして40代後半、健次は「全盲」に。それでも毎日杖をついて自宅から徒歩数分の事務所に顔を出し、社長席に座るのが日課でした。
健次が「山師」のころから、商売をする上でもっとも大切にしていたのは「誠実であること」です。建設業者になってからも、その精神は変わりませんでした。
健次が築いた吉澤建設工業は、長男の尚登に引き継がれ、現在に至ります。今後も社是「貞誠」を貫き、つねに未来を見すえ、事業を展開していきます。
材木屋時代、オート三輪に腰掛ける三男・康広(1965年頃)
土木工事を行う従業員(1970年頃)